私は幼少期から某新宗教を信じるよう教育されてきましたが、元恋人に説得され、信仰心が消えました。現在は信じていません。
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この記事では、信仰心が消えてからの私に起きた変化をリストアップしていきたいと思います。
この記事は、特に「身近に説得したい宗教信者が居る」方に読んでいただき、説得に成功すると何が起きるかを想像してもらえると嬉しいです。
洗脳が解けたら万事解決!はいOK!終わり!……となるわけではないことを知っていただきたいのです。
また、宗教二世で無信心の方は「あるある!」「ねーよ!」とご自分に照らし合わせて楽しめるかもしれません。
心の中にぽっかりと穴があく
宗教二世は、幼少期から宗教施設に通ったり、信者である親からの教育を受けます。
私は、幼少期からの教育というものはその人の人格形成に大きく影響を与えると考えています。
母が信仰している宗教の教義は、道徳的な内容が多く「より良く生きるため」の宗教であったように思います。
なので、宗教から道徳を学んだ私の中の道徳観念は宗教がベースになりました。
私という人間の土台の一部が宗教になったというイメージです。
そして、その宗教が信じられなくなるということは、私の土台の一部がぽっかり消えてしまうということです。
宗教の信者が信仰心を失う時に感じる「心の穴」とは、この穴のことではないかと私は考えています。
物事を決める基準が無くなる
宗教は「より良く生きるため」の教義を持つものが多くを占めているように思います。
それに沿って行動すれば、より良く幸せに生きられるという指針のようなものです。
抽象的な概念から具体的な行動まで、色々あります。
そしてこれは私が信じていた宗教の大きな特徴なのですが、個人カウンセリングのようなものを受けるシステムがあります。
それで言われた通りにすれば、物事がきっと上手くいくという感じのアドバイスを受けます。
例えを上げればキリがないですが、こんな感じです。
- 自分に限界を感じていませんか?越えていけるので祈りながら頑張って。
- 最近、祈りが足りていないのでは?それでも〇〇様(教祖やその家族など)は見守ってくれています。常に感謝しましょう。
- 先祖に□□で困っていた方が助けを求めているので供養しましょう。
- △△と✕✕どっちがいいか?△△には因縁が感じられます。✕✕がいいでしょう。
その宗教を信じている人はその情報を絶対的に正しいものとしてその通りに受け取り、教えられたとおりに行動できるよう努力します。
そして、その宗教を信じられなくなるということは、そのアドバイスを疑う余地が生まれます。
なので、これからは頭の中のフィルターを通す作業が必要になります。
今までは「言われた通りやればいい」だったのに、その指針が無くなると人間は困ります。
言われたことを100%きっちりやっていた訳では無い不真面目信者だった私ですが、信じなくなった直後は漠然とした不安を感じました。
手元にあった取扱説明書を急に失くしたような、そんな不安感です。
今考えると、私は「あなたは何がしたい?」と聞かれると何も答えられない人間でした。
今も「何食べよっか?」と聞かれると「あなたの好きなもので……。」とはぐらかしてしまいそうになる悪い癖があります。
他にも、子供の頃に楽器を「アドリブで演奏して」と言われると強く萎縮してしまう傾向があったことや、「何を描いていいかわからない」という理由で抽象画を描けなかったこと……。
これらは、宗教や母から植え付けられた「怒られたり失敗するのが怖いから命令を待つ体質」によるものが大きいのかもしれません。
視野の狭さや不寛容さに気づく
私の信じていた宗教は、上記で説明したように「生きる指針」が宗教側のアドバイスによって決められることが多いのが特徴だと思います。
- 常に〇〇様への感謝を忘れないようにしましょう。
- 辛くなったら読経しましょう。
- いじめられたら大変だった〇〇様を思い出して耐えましょう。
- 上手くいったら〇〇様のおかげです。感謝しましょう。
- 上手くいかなかった?〇〇様がいなければもっと上手くいってなかったですよ。感謝しましょう。
信者にとっては、これが絶対的な正解です。
しかし、世界にはたくさんの人がいます。
考えていることはみんなバラバラです。
この世の中には「正解」がひとつじゃないことがたくさんあります。
「正解」を与えられていた私は、自分の「正解」と違うことをしている人を見ても理解できませんでしたし、そもそも相手の「正解」を理解するつもりがありませんでした。
宗教を信じなくなった私は、20年近く生きてやっと「不寛容で視野の狭すぎる自分」に気づいたのです。
指導者が「普通の人」に見える
本来うちの宗教では、あくまで信仰対象は仏であって、教祖や指導者は仏へ導いてくれている人と考えることになっていたと記憶しています。
しかし、私の目から見るとそれはただの建前。
末端の信者さんは教祖やその家族、現指導者への感謝を語る人ばかりでした。
仏教がベースになっていて信仰対象は仏であるはずなのに、信者同士の集会をひらいても出る話は仏様の話ではなく教祖とその家族と現指導者の話。
そういった環境の中で、信者は「指導者の〇〇様はとても立派な高僧で素晴らしい人だ」という概念を植え付けられます。
私もその宗教を信じていた頃は、指導者を見ると神々しい特別な人だなあと感じていました。
その宗教を信じなくなってからも、家族の仲を取り持つために信じなくなったことは黙り、母の宗教活動に付き合ってあげていました。
そこでは教祖や指導者の映像を見て、ありがたいお言葉を聞く時間があります。
しかし、もう信じていない私にとって、そこに映っているのは「ただのおばあちゃん」です。
ちょっと小綺麗にしてる、喋り方が上品な普通のおばあちゃん。これ母が読んだら絶対怒り狂うな
SAN値が削られる
私はもう信仰心をなくしましたが、母は熱狂的な信者なので常日頃から私に宗教の素晴らしさを語ってきます。
この前の〇〇様(指導者)のお言葉は素晴らしかったとか、最近いいことが起きたのは宗教のおかげだとか、不思議なことがあったのは〇〇様(教祖)が何かを伝えようとしているんだとか、そんな感じです。
話半分で聞き流せればそれで済むのですが、さすがに10年近くそういう話を聞かされると精神的に参ってきます。
この感覚をどうにか上手く説明できないかと思っていたのですが、最近いい例えが浮かびました。
これってもしかして、クトゥルフ神話TRPGで使われる「SAN値が減る」という感覚にそっくりなのではないか?と。
クトゥルフ神話TRPGは、ホラーテイストのテーブルトークロールプレイングゲームです。
ゲーム機を使わないゲームで、複数の人間が話しながらサイコロを振ってシナリオを進めます。
このゲームには「正気度」というシステムがあります。
ショックな出来事や人間の常識では計れないものに遭遇すると、正気度ポイント(Sanity Point→SAN値)が減ります。
このSAN値は減る量によってプレイヤーが発狂状態になるなどの制約が課されます。
詳しく知りたい方はぜひ調べてみてください。
熱心な宗教信者である母から私の中の常識では計れない話を頻繁に聞かされると、SAN値が減らされているような気分になります。
ここ約10年で私のSAN値はじわじわと削り取られ、ついに耐えきれなくなった私が今こうしてブログを書いているという訳です。
信心が消えたらまずは心の整理が必要
ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。
洗脳さえ解ければ終わり!となるわけではないこと、ご理解いただけましたでしょうか?
私の場合は不真面目信者だったので心の整理にかかった時間はそこまで多くありませんでしたが、
熱心な信者だった状態から信心が消えた方は私には計り知れないほどの苦悩や葛藤があることと思います。
もし宗教の元信者さんで「わかる!」と感じる部分があった方は、コメントやTwitterに感想をいただけると嬉しいです。
今回、本当は上記の感情についても含めて宗教信者の説得というテーマについて一記事にまとめようかと思っていましたが、文字数がすごいことになりそうだったので分割しました。
次回の記事では、ここまでの話を踏まえたうえで、時間が経った今だから言える「宗教信者の説得」について書いていきたいと思います。
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